『同朋』3月号対談を特別公開します

掲載日:2024/03/29 14:46 カテゴリー:メイン

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「役に立つ」を超える生き方とは。



便利さや効率化が追求され続ける現代社会において、私たちは「ムダ」を愛でることができるのか。
文化人類学者であり、昨年『ナマケモノ教授のムダのてつがく』を上梓された辻信一さんと、
長崎県川棚町でお寺の坊守と、こども園の副園長を務める深草教子さんの対談です。






子どもは本来スローなのに大人がそれを待てない

深草 はじめまして。私は、長崎県佐世保市の近く、川棚町の福浄寺の坊守(住職の配偶者)を務めております。よろしくお願いいたします。
 僕にとって長崎は、近年通い続けている非常に特別な場所で、つい最近も行ったばかりです。長崎は、宗教や信仰に少しでも興味のある人は、避けては通れない重要な場所という気がします。
深草 よくいらっしゃるのですね。意外なつながりがありうれしいです。今回のテーマは「ムダ」ということですが、恥ずかしながらあまり意識したことがなかった気がします。でも、先生の『ナマケモノ教授のムダのてつがく』(さくら舎)を拝読して、「ムダはひとつのモノサシにすぎない」という言葉がすごく印象的でした。自分が普段どんなことをムダだと思っているのか改めて考えてみると、仕事や家事、子育てにしても、自分にとって都合の悪いことや面倒なことをムダと捉えているかもしれません。
例えば育児なら、朝の仕度なんかはすごく忙しくて手一杯で、できるだけムダなく子どもを学校に送り出したい。だから、気づけば「早く起きなさい」「早く食べなさい」「早く学校に行きなさい」と、起きてからずっと子どもに「早く」と言い続けています。本当に自分のモノサシでしか考えていないことに気づかされます。
 23年前に『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)という本を書きました。まさに今おっしゃったことがテーマで、僕たちは1日にどれだけ「早く」という言葉を使うんだろうか。特に子どもたちは、大人になるまでいったい何度「早く」と言われて育つのか、と。
深草 私はお寺に併設されているこども園の副園長を務めているのですが、父である理事長から、「保育の基本は待つことなんだよ」といつも言われます。毎月、こども園の掲示板にいろんな言葉を選んで書くんですけれども、その中に「ゆっくり しっかり 子どもは本来スローで 現在を生きる存在」という言葉がありました。大人はいつも何かに追われていますが、子どもにとっては目の前の現在が大事。子どもは本来スローなのに、大人である私たちがそれを待てないんです。


「役に立つ」ということにがんじがらめにされている

 そもそも、なぜ「待つ」ということがそんなにも難しいのでしょう。どうしてそんなにもムダを嫌って「早く早く」と人や自分をせき立てるのか。このことを考える時に、親鸞の「無義をもって義とす」という言葉がヒントになる気がします。
深草 『歎異抄』第十条にある「念仏には無義をもって義とす」ですね。念仏は、人間の思慮分別のはからいを加えない「無義」であることをもって本義とするという、念仏の了解が示された部分です。
 「無義」という言葉で表されているのは、人間の理性や知性、つまり「はからい」に対する強い懐疑ですよね。法然や親鸞は、こうした出発点から自分の思想を編んでいったのかもしれません。行動にはいつも目的があり、目的があるからこそ様々な手段や計画を用意して、それに導かれて行動する。つまり、「はからい」に従って日々生きているわけです。これこそが、「待てない」僕らを作り出している根っこなのではないでしょうか。
深草 たしかに目的ということに注目してみると、いつもそれにとらわれている気がします。
 「無義」に似た言葉に老子の「無為」がありますね。「無為」とは「為すなかれ」ですから、「するな」という意味ですよね。しかし人間は、年がら年中何かをしていて、寝ているときにも、息をして心臓を動かしている。つまり、何かを「する」ことから逃れられないのが人間なのです。
そこで今改めて「無為」とは何なのかを考えているのですが、自分なりに行き着いた一つの考え方が「何かのために為すなかれ」というものです。僕らは「はからい」に従って「何かのために」行動している。そうするうちに、「役に立つ」ということにがんじがらめにされているのかもしれません。「無為」を、「何もするな」ということではなくて、「役に立つ」ということから離れるための「何かのために為すなかれ」という言葉として受け取ってみたいと思うのです。


「はからいを捨てる」というジャンプ

 近年、小中学生・高校生の自死が問題になっていますが、その背景にも「役に立たない自分」というものへの苦しみがあるのだと思います。自分は何の役にも立たない存在かもしれない。だったら生きていても意味がないんじゃないか。これは本当に生死を揺るがすような深い悩みだと思います。
2016年に相模原障害者施設殺傷事件という忌まわしい事件がありました。実行犯の植松聖(現死刑囚)は、意思疎通のとることが困難な障害者のことを、社会に負担ばかりかけて何の役にも立たず、不幸をばらまくばかりの「ムダ」な存在だと主張し、殺すことが社会のためになると自分を正当化しようとしました。ただ、こうした主張を待つまでもなく、今の若者たちは誰もが自らに向けて「ムダな存在かどうか」という問いを発し、時には自らに対する暴力を行ってしまっているのです。
『ナマケモノ教授のムダのてつがく』には「「役に立つ」を超える生き方とは」というサブタイトルをつけました。この本について講演会を各所でやってきましたが、終わった後で「役に立たなくてもいいんですよね」と涙を流しながら共感の声をかけてくれる人がいます。でも中には、最後まで不満が解けない人もいて、「じゃあ、役に立っちゃいけないんですか?」と怒ったようにおっしゃる方もいる。
この声には、現代人の悩みが如実に表れている気がします。でも僕が言いたいのは、その先があるということです。つまりこの世界は、役に立つことだけでできているのではないということです。
深草 こども園で見ていると、子どもたちにとって親の存在は、役に立つかどうかではなく、そこにいること自体が大切なのだと感じます。何かの目的とか「はからい」みたいなものは確かにそこにはないな、と。
 ただ僕らは「はからい」から、なかなか離れられないというのも事実でしょう。さきほどふれた『歎異抄』の「無義をもって義とす」ですが、釈徹宗さん(浄土真宗本願寺派僧侶)の解説が興味深かったです。人間の思慮分別のはからいを加えない「無義」ということについて、「「理屈を言わずに信じろ」という話ではないのです。理性や知性ではとどかない領域がある。その最後の一線のところで、「はからいを捨てる」というジャンプをしなければならない。そうしなければ見えない景色があるのだ、ということでしょう」(釈徹宗『NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄』)と説明されていました。
つまり、理性や知性という「はからい」を否定しているわけではないけれども、それらを捨てるという「ジャンプ」をしなければ見えない景色があるということ。「役に立つ」ということを捨てろというわけじゃない。でも勇気を持って「ジャンプ」した先はすごく豊かで、喜びも生きがいもあるかもしれない。まさにこれは、僕が「ムダ」について考えるなかで言いたかったことなんです。


人間の本当の知恵は「分からない」と付き合うこと

 「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉をご存じでしょうか。元々、イギリスの詩人のジョン・キーツが使った言葉で、日本に紹介したのは精神科医で作家の帚木蓬生さんです。直訳すると否定的能力ですが、帚木さんは「答えの出ない事態に耐える能力」と定義されています。つまり、「分からない」ことを分かったふりせずに、それらと付き合う能力です。
「分からない」ことに耐えるというのはとても難しいことで、僕らは社会や自然、病気などにもいろんな意味づけをして分かったつもりになってしまいます。例えば、コロナが流行り始めた時、そもそもウイルスというものについて何ひとつ知らないことに気づいたわけですよね。ところが、それとほぼ同時に、政治家たちは「コロナウイルスとの戦争」などと言うようになった。相手が何だか分からないのに、どうやって戦争できるのでしょうか。本当は分からないのに、相手の本性を分かったということにしてしまう。これは、差別や戦争など、対立関係には必ずといっていいほど潜んでいる危険な態度です。
深草 分からないことに対する不安というのは、本当に実感しています。今、私が住んでいる川棚町は、「石木ダム」というダム建設計画の問題を抱えています。50年以上前から計画されているもので、その予定地になっている川原地区という場所には、かつて35軒の住宅がありました。引っ越された方もいますが、今でも13軒の家があり、その方たちは全て私が坊守を務めるお寺のご門徒さんでもあります。
 なんと、そうなのですね。
深草 ダムの建設については、本当に分からないことがたくさんあります。そんななか、引っ越した人も残っている人も、それぞれの苦しみや悩みのうちに決断をされたと思います。でも実際に起きてしまったのは、コミュニティの分断です。私にとっては、そのことが今でもすごくつらいのです。
決定された工事に反対するのはムダという人もいる。でも私からすれば、50年前に計画されたダムがいまだに建ってなくて、何の変化もないならば、ダムをつくること自体がムダだと思ってしまいます。まさに「分からない」ことをめぐって、それぞれの立場で対立が起こっている。それに対する強いジレンマがあります。
 石木ダムの問題は、以前から注視していました。これは原発や基地の問題とまったく同じ構図であり、これらの背後にあるのが「目的」なのだと思います。例えば、経済成長、戦争、国防など、「目的」が設定された時に、「手段」は正当化されていく。ダムがどんな利益をもたらすのかというのは、分からないことだらけにもかかわらず、「目的」として設定され、ダムという「手段」が正当化されている。しかしその一方で、今お話してくださったように、様々な問題が起こっているということを見直さなくてはなりません。


菜の花の風景

「効率」の行き着く先にあるものとは

 やはり現状が抱える様々な問題に対して、今後の希望になってくれるのは子どもたちだと思います。アフリカのことわざに「ひとりの子どもを育てるのにはひとつの村が要る」という言葉があります。
一見ひどく非効率的ですが、実は人類学的に見れば当たり前のことです。伝統的な社会のほとんどで、子どもたちは、親というよりもコミュニティ全体に育てられてきた。しかし西洋化や近代化の中で、次第に子どもは家族によって育てるという通念が広がり、核家族が一般的になったのは意外にも最近のことです。
一方で、冷戦時代の東欧の独裁者の中には、家族で子どもを育てることさえも非効率と考えた人がいて、子どもをみんな収容所に押し込めて、工場でものを作るように子どもを育てるという試みがなされた。すると、子どもたちが病気になってどんどん死んでしまったんです。
冷戦後に国際的な調査団が実態について調べると、死因は当初予想されたような栄養失調や虐待、寒さなどではなくて、愛情の欠如による生きがいの喪失、そして免疫力の低下が原因ということが分かりました。つまり、愛がなかった。これはすごい結論で、僕は衝撃を受けました。これが「効率」の行き着く先なのです。
功利主義の観点からすれば、子どもは将来のタックスペイヤーであり、生産力ですから、できることなら効率的に早く育てたい。ところが子ども自体、本当にムダの塊みたいな人たちです。この世界で、一切の見返りを求めず、遊び自体を十全に楽しめるのは子どもくらいでしょう。
ただ、遊びが楽しくなるためにはいろいろ考えなくてはいけない。フェアでなきゃいけないし、仲間はずれがいたらつまらない。遊びは、そうした深い学びが現れるような、非常にクリエイティブなものなんですね。しかし、それ自体が何かの目的に資するわけではない。これが自由の原形じゃないですか。
どうして僕たちは子どもたちからもっと学ぼうとしないのか。先のアフリカのことわざに対して、これからはひとつの村、つまりコミュニティをつくるためには、子どもたちが必要なのだとひっくり返して考えるべきです。
深草 遊びは本当に大切です。ただ保育の現場は本当に多忙で、そのバランスにはいつも悩んでいます。先日、子どもが遊んでいた時に「もう夕ご飯の時間だよ」と声をかけたら、「今忙しいから」と言うのです。大人のスケジュールは子どもたちには関係なくて、子どもたちは今まさに遊びで「忙しい」。ご飯も食べてほしいけど、「遊び」は子どもたちにとって大切な時間でもある。保育士さんたちはそんな時間を尊重しつつも、どうやって仕事を進めればいいのか、悩みながら働かれています。
仕事上は効率化も大事ではあるのですが、先生が本の最後に書かれていた「あなたは効率的に愛されたいですか?」という言葉が、胸に刺さります。


つながりの中に自らを見いだす

深草 こども園で職員の学習会をやっているのですが、いつも理事長が「真宗の教えを聞いたってね、あんたたちの役には立たんとよ」と言うんです。すると職員から、「あっ、だから真宗って流行らないんですね」と言われたことがあって。それがすごく私にとって新鮮でした。「役に立たない」ということが真宗の教えなんだというところを基本に置いた時、やっぱり教えを何か役立てようとしている自分に気づかされ、本性が問われた気がしたのです。
門徒さんは、石木ダムに賛成の人も反対の人も、お寺の法要がある時には同じ場所で手を合わせ、お念仏を申されます。その空間では意見の違いを超えて、皆が集まっている。こうした場に身を置いた時、役に立つかどうかというはからいとは関係なく、つながりの中に自分もいるのだなと改めて教えられます。
 素晴らしい気づきですね。地球はひとつの生命体であるという「ガイア仮説」という考え方があります。ある時、そんな地球に人間が現れて、自分たちにとって役に立つものと、ムダなものという分別をしたわけです。そしてそれがいつしか、世界に戦争や環境破壊などの大混乱を引き起こして、今では人類自身の存続を危うくするようなところまで行き着いてしまいました。
このムダの議論というのは、最終的にここへ行き着かなければいけないのではないかと思います。つまり、この大いなるつながりの中に、僕たちがもう一度自らを見いだすということです。これは古代から宗教が教えてきてくれたはずのことですよね。仏教の教えがまさにそれでしょう。仏教が今世界中で求められているのはそういう理由だと思います。
深草 今回のテーマ「ムダを愛でる」という言葉は、朝日新聞のインタビューで坂本龍一さんが発言された言葉でもあるそうですね。当時はコロナが始まってすぐで、文化支援の是非を含めて芸術の必要性ということが問われていた。その時に坂本さんは、かつてナチス・ドイツがワーグナーの音楽を国民総動員に利用して、国家の役に立つアートかそうでないかを峻別したことにふれて、「役に立つアート」という考え方そのものに危うさを感じるとおっしゃっていました。自分自身の音楽についても、「何かの役に立つこともない」し、「役に立ってたまるか、とすら思います」と。
 僕にとって坂本さんは色々なご縁をいただいてきた方で、あの記事は遺言のように感じています。見出しにはこんな言葉がありました。「「芸術なんて役に立たない」そうですけど、それが何か?」。そうなんです。子どもたちの遊びも、僕たちの日々の営みも、役に立たないけど、「それが何か?」なんですよ。「役に立つ」という発想そのものを超えて、遊びやゆとりといった「ムダ」を愛でることができるのか。社会はその曲がり角に立っているのかもしれません。
深草 そうですね。今回はいろんなお話を聞かせていただきありがとうございました。
 こちらこそ、良い機会をありがとうございました。



辻 信一 つじ しんいち
1952年、東京都生まれ。文化人類学者。NGO「ナマケモノ倶楽部」代表。明治学院大学名誉教授。1977年北米に渡り、カナダ、アメリカの諸大学で哲学・文化人類学を専攻、1988年米国コーネル大学で文化人類学博士号を取得。著書に『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)などほか多数。


深草教子 ふかくさ きょうこ
1980年、長崎県生まれ。京都ノートルダム女子大学英語英文学科卒業。大谷大学大学院真宗学専攻修了。現在、真宗大谷派九州教区長崎組福浄寺坊守、社会福祉法人みのりこども園副園長。